人気音楽デュオ「コブクロ」の小渕健太郎さんは、亡くなった母親を想って作った曲が何曲かあるのは知られていますが、そんな小渕さんの母の死因は何だったのか調べてみました。

また、才能あふれるアーティストが育った実家や父親・姉・学歴や、コブクロでデビューする前に勤めていた会社についてもまとめました。








コブクロ小渕健太郎の母の死因は?
小渕さんの母親は、小渕さんが18歳の時にお亡くなりになっています。
そんな小渕さんが作った「遠くで・・」「忘れてはいけないもの」「蕾」は、その母親をテーマにした曲で、中でも「蕾」は2007年の日本レコード大賞を受賞し、話題になりましたね。
母親が亡くなった時を想って作られた曲だそうですが、受賞の際のインタビューで
「今日は、母親の事を歌ったと言ったのですが、なんか(母が)一緒に歌っていた気持ちがすごく強かったので、きっと一緒にこの賞を受け取ってくれてるんじゃないかなと思います」
と涙ながらに答えた様子は今でも鮮明に心に残っています。
お母さまの死因については公表されていませんが、この曲を聴くたび、自分の母の事を想う人はたくさんいるでしょうね。
小渕の実家や父親・姉は?
宮崎県宮崎市に生まれた小渕さんの実家は、日本民謡を教えていたそうです。その影響もあって、幼い頃から音楽に興味を持ち、ギターを始めたのは小学5年生の時だったそうです。
奥田民生さんや布袋寅泰さんに憧れてギターを始めた小渕さんが初めて弾いた曲は、父親がよく弾いていたという昭和の名曲「酒は涙か溜息か」。
父親がどんな楽器を弾いていたかは語られていませんが、この曲からすると、たぶんギターではなく、三味線ではないかと思われます。きっと、三味線の先生だったんでしょうね。
姉はライブにも!
小渕さんには2つ上の姉が一人います。おそらく一般の方だと思いますが、福岡在住でコブクロの福岡でのライブには観に来られているようですよ。
小渕の学歴は?
小渕さんは、宮崎県立宮崎工業高等学校電子科(現・電子情報科)に通っていて、最初の1年間はバトミントン部に入部。その後はギターを持ってあちこちのバンドを掛け持ちし、文化祭やライブに出ていたそうです。

その頃の小渕さんは、音楽で食べていくという夢はなく、洋服を作る職人を目指していたそうです。
そのため、高校卒業後は服飾関係の専門学校に進学を希望していたのですが、親に反対されて断念し、就職しました。
小渕はサラリーマンで主任だった!?
そんな小渕さんが就職したのは、福岡が本社の株式会社サニックス。産業用太陽光発電にまつわる事業を展開する大手企業ですが、研修終了後は貝塚支店に配属され、単身大阪でサラリーマン生活をスタートすることになりました。

営業マンとしても優秀だった小渕さんは、21歳の若さで主任に昇格。堺市に移動になったのがきっかけで、土曜の夜限定で路上ライブを行うようになりました。
そこで相方の黒田さんと出会い、「コブクロ」を結成。音楽活動に専念するため辞表を提出したところ、なんと8時間も会議室に閉じ込められ、説得を受けたそうです。
まとめ
コブクロ小渕健太郎の母の死因や実家、父親・姉・学歴や勤めていた会社についてまとめましたが、いかがでしたか?
営業マンとしても実績を上げてきた小渕さんだからこそ、ミュージシャンとしても売り込むセンスが備わっているんですね。今後のご活躍も期待しています!